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大日本神相学派琉家 陰陽師 神政館

社会全般についての考察

«逆説»

ぎゃく‐せつ【逆説】 1 一見、真理にそむいているようにみえて、実は一面の真理を言い表している表現。「急がば回れ」など。パラドックス。

2 ある命題から正しい推論によって導き出されているようにみえながら、結論で矛盾をはらむ命題。逆理。パラドックス。

3 事実に反する結論であるにもかかわらず、それを導く論理的過程のうちに、その結論に反対する論拠を容易に示しがたい論法。ゼノンの逆説が有名。逆理。パラドックス。


突拍子も無い話から始めるので不思議に思わないで欲しい。と言うか何時も突拍子も無い内容で始まっているか…。

お騒がせ歌手の一人に「玉置浩二」という男が居る。確か青田典子と結婚したのかどうかは知らないが、今でも一緒にくっついているようだ。極々一般的な意見だと、あの我侭な歌手玉置浩二のどこが良いのだろうと思う事だろう。しかし何事でもそうだが、実際にそうなっている以上、きっと聞けば納得できる訳(理由)がある筈だ。

どんなに凶悪な犯罪でも、その犯罪に至った原因はあるものだ。それを聞けば誰でも納得と言うか、犯罪に至ってもしょうがないと言う理由に同感する訳ではないが、そういう理由だったのかと理解は出来る筈だ。例えば子供を襲う猟奇殺人であっても、客観的に冷静にその犯人の生い立ちやその犯人が犯罪に至った経緯を詳細に聞くと、その行動の理由や裏づけが理解できて、犯人以外のところにも犯罪に至った原因を見出す事が出来るだろう。

話を戻すが、玉置浩二がせっかく彼のコンサートの切符をファンが購入して、楽しみにしていたにも関わらず、途中突然コンサートを中断して帰ったと言う事件があったのを覚えているだろうか。たった今調べた所、玉置浩二はコンサートの最初から少々ろれつが回らない感じだったようだ。酒にでも酔っていたのかどうかは定かでは無いが、コンサートは彼の我侭でブチ切れて中断と相成った。此の事について各メディアやコメンテーターは、プロなら最後まで歌うべきだとコンサート中断を非難したコメントが多かった。

歌手と言う職業は、職人に属するものだ。職人と言うのは、元来頑固で変わり者と言う気質の人が多いものだ。職人が技術や腕を磨く上で一つの事に集中し修行をすると、どうしても俗世間からは取り残され、非常識的な部分ができてしまう。それは一言で説明するのは難しいが、一つの特技を追求するあまりに、世間の常識の枠から外れてしまい、また、世間の常識の通用しない世界が職人の世界でもあると言う関係にあるからだ。

職人と言うのは、単価だとか何時までに仕上げないといけないだとか、そういった社会の仕組みや一般的には当たり前の事を重視していては技を磨けない部分も多く、歌手にしてもピュアなメロディーや歌詞を書き続けるには、何時までも少年や少女のままで居る必要があり、ギャラや金儲けの事を考えて何かを創作するように成った時から、芸術家では無くなる部分がある。だから、昔の画家も亡くなってから売れるからこそ、生前良い絵を描く事が可能に成る。つまり金儲けの計算を始めたときから、その人の芸術作品は最初の作品よりも邪念が入り、人の心を打たなくなるものだ。これを当て嵌めて芸能人を見ると理解できる筈だ。金儲け一筋に走ってしまうと、その人の旬は終わる。旬が終わらない売れ続ける人はピュアな心を保っている分だけ、我侭で世間を騒がせる人が多い。天は二物を与えないものだ。

コンサートを中断せずに歌い続けられると言う事は、ファンやお客さんの為に気分が乗らない時でも歌っているとも言える。これはある意味でファンに失礼でもある。100%の力が発揮できないと分かってながら、いい加減な歌を金を取って歌っている訳だ。腕の良い職人はこれだけは絶対にしない。中途半端な気持ちでは一流の職人は仕事はしない。もちろん一流の職人なら、コンサートの日に100%力を発揮するように調整するのもプロには違いないが、人間だからそのつもりで頑張っても旨く行かない日もあるだろう。

此れはあくまでも玉置浩二がコンサートを中断した理由だとは限らない。断っておくが、私自身は玉置浩二のファンでもなんでもない。あくまでも職人とはこういうものだと言う事と、こういう見方もあると言う事を知り、また一つ世の中を違う角度から見る目を養って見聞を広げて欲しいと思っている。

もう一つの逆説は、ニュースで話題の教師の暴力の件だ。思い起こせば中学生の時に、今で言うと教師から体罰を受けた事が何度かあった。拳骨で殴られたと記憶している。ケースバイケースだとは思うが、普通何も原因が無いのに教師も暴力は振るわない筈だ。生徒が何もしていないのに教師が暴力を振るったとしたら、それは教育委員会や行政が介入して指導要領の問題では無く、単なる暴力事件だから警察の問題だ。

その時は、私自身が先生から体罰を受けても仕方の無い事を仕出かしたと記憶している。他の生徒を見てもみな体罰に値する事をしたので先生から体罰があった。何もしていない生徒を殴る先生など一人も居なかった。今の若者を見ていると、くそ生意気なガキばかりが目立って、我々の時のような素直な不良では無くなっているし、不良だけに限らずおとなしい生徒であっても、目つきが悪いとか、注意しても反省の色が見られないなどの態度が見受けられたり、やはり殴られなきゃならない理由がそこにはあるのかも知れない。

考えてみて欲しいのは、理由はどうあれ、学生は学校の規則を守って、時間を厳守し先生に出された宿題をして翌日登校し授業を受ける。もちろん、身なりも良いし忘れ物も無い。先生とは鐘の合図で教室に入ってきて出席を取る筈だ。「はい」と元気よく答える。授業をよそ見やおしゃべりをせずに真面目に受ける。先生にあったら必ず朝の挨拶をする。学校の支持があったらその都度、それに従い、その間私語は慎む。遠足や就学旅行には余計な物は一切持って行かない。集合時間には遅れない。言われた通りにしている。家にはまっすぐ帰る。深夜9時過ぎには出歩かない。これを実行していて、果たして先生に殴られるような事があるのだろうか?

理由は様々だが、先生が生徒に対して体罰を与えるときに、何もその程度で体罰は厳しいのではないかと言う事案であっても、その程度の事をしたのは生徒が悪いからだ。教師の前に生徒やその両親の教育に問題がある筈だ。教師に体罰を与えられる前に、両親が子供に時には体罰で躾をしていないのが一番の問題だ。

体罰は必要だ。人も動物も時には痛い目にあってこそ分かる事もある。教師から体罰と言う大切な教育の武器を奪うなら、両親に体罰と言う大切な武器を与える事だ。両親から教師から警察から軍隊から体罰(暴力)を奪うと、その体罰(暴力)と言う名のエネルギーは犯罪者を通して被害者に向かう事になる。

元不良教師の馬鹿共も体罰に反対しているようだが、この世から体罰が無くなると、そのしわ寄せは違う場所に発散されるだけ。何かの解決に結びつく事など一切無い。因縁と同じ事で、蓋をしても違う場所から頭を出す。モグラ叩きゲームと全く同じ事、根本原因を探らない限りこの問題は解決する事はない。

神政館を一人でも多くの縁者と縁を繋ぐ方法として、ブログ読者には手を煩わせるが、神政館のサイト〔螺神梁サイトを含む〕・ヤフーブログ両方に記事を書く事にする。


陰陽師・神政館 館長:山下款二