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大日本神相学派琉家 陰陽師 神政館

因縁についての考察

«墓石屋»

今では仏教も神道も、世界中全ての宗教は金儲けが中心になった。宗教が人々の心の拠り所であったり、人間の道徳心を育てる道標であったり、人々に真理を説く時代は既に消え去り、金儲けの方向に舵を切った事は、時代の流れによるものだから仕方が無い。また、それを人類が望んだからこそ宗教は金儲けに走った。

此処に宗教の悪行は見受けられない。人の苦しみである病や人生の災難でもある事件や事故などを、医療業界やマスコミ各社も、金儲けに変えている。宗教も金儲けの方向に舵を切らないと生き残って行けない時代に成った訳だ。

それは人類社会の進歩でもあるので、余程の暴利を貪る行為や、詐欺的行為(法に触れる行為)が見受けられない限り、今の時代に照らし合わせると正業と判断するしかないようだ。

中でも悪質な宗教や占い師や霊能者と言えば、必ずセットになるのが墓石屋だ。奇しくも私の次男が墓石屋の職人として修行して約五年、来年可能であれば独立したいとの意向があると言ってきた。

不思議な縁に導かれる。だから人生は面白い。私の先祖は第五の記録によると、四国は愛媛県の宇和島と言う地方の出身で、曾祖父は城に仕える瓦職人だったと聞いている。祖父は貧乏から抜け出すために商売を夢見て豊後水道を渡り大分県に行ったそうだ。そこからは戦争だの終戦だのと激動の時代を、努力と強運で生き抜き、戦争中は料理の腕前を買われて、上官の調理担当として銃を持ち戦地に行く事は無かったそうだ。終戦を迎えてからは、福岡県に行き、祖父は元調理の担当だった事から軍の食糧庫の番を命ぜられる。

戦後は食料難はもちろんの事、特に甘いものが不足していて人気があったそうだ。もちろん言い訳をするのではないが、財閥や後に大企業にまで成長を遂げる企業の創業者というのは、多かれ少なかれ、利権争いや汚職や賄賂を駆使して伸し上がるのが大半のやり方だった。祖父も食料庫の管理を任された事で、砂糖など一部の食料を闇市に横流しする事で財を成しかけるが、悪銭身に付かずで全てを失い、うどん屋の屋台一つに成るが、博多の街で屋台を引きながら商売に成功し、当時はパチンコと言えば韓国人経営者ばかりだったが、唯一日本人として、パチンコが盛んな愛知県でパチンコを知り福岡県に戦後最大の娯楽であるパチンコ店を開店する。瞬く間に、パチンコは娯楽として大ヒットし、福岡県・大分県・佐賀県・鹿児島県・宮崎県と手を伸ばし、九州のパチンコ王と呼ばれるまでに急成長を遂げる。

元々は料理人だったので、その腕前を生かして活法旅館から活法料理店・寿司屋・昭和40年には福岡シティホテル・今も看板はあると思うが、ムーンライトと言う名の連れ込みホテル(今ではファッションホテルと呼ぶようになっている。)、喫茶店からボーリング場経営、博多の中州ではキャバレーレッドシューズも経営していた。

祖父の名前は山下戸吉と言う。妾の子供も合わせて9人の子供をもうけるが、全員お金に任せて育ったので、優秀な頭脳の者も居たが、大半は18歳に成ると同時に、博多警察が普通免許証を作って挨拶に来る状態だった。運転免許の試験が無いのは当たり前で、22歳に成ったら東京六大学のどこかは知らないが、行きもしない大学の卒業証書を持って来る(送ってきたのかも)始末。福岡県最大のデパート岩田屋、現岩田屋福岡三越の前進だと思うが、そこの超得意様で、ネクタイは全て舶来の流行の柄を300本くらいで箱買いし、ビキューナーやシルクの数十万円の背広に、当時は軽自動車も滅多に見ることが出来ない時代において、息子たちの車は全て高級アメリカ車、博多の街に繰り出すと黒山の人だかりが出来たそうだ。もちろんスピード違反も駐車違反もお咎めなしの揉み消し状態。私の父親に関しては無類の暴れん坊で次男坊、祖父の妾との折り合いが悪く、少々捻くれ気味の気の短い竹を割ったような性格だった。当時父親も17歳くらいの未成年だった事と、父親(私の祖父)の経営するパチンコ店の釘師兼用心棒だったので、喧嘩の相手はほとんどパチンコ屋に集るヤクザかチンピラ相手と言う事もあってか、ヤクザとチンピラ相手に父が加えた暴行も殺人未遂もすべて揉み消し。息子たちの結婚式には、内閣総理大臣佐藤栄作も駆けつけたそうだ。当時の祖父の自宅は、今の福岡市中央区にある南公園の約半分が自宅の敷地だった。当時もカトリックの幼稚園と動物園が山の約半分に隣接していて、私の記憶では動物園の敷地の柵(境界)が庭にあった。敷地の広さは地図で確認すると東京ドーム3個か4個くらいだろうか。ライオンズクラブの福岡県の会長?のような事もやっていたようだ。

少し長くなったのは、祖父の自慢話ではない。ブログに一族の歴史を書いて息子に残しておこうと思ったからだ。縁者にとっても私自身を知るには、そのルーツを知る事も私の履歴の一部だからだ。

まだ、私が小学校を卒業するかしないかの時期に、祖父の会社は馬鹿息子の不始末で不渡り手形を出したので、倒産に追い込まれると同時に祖父も亡くなった。戦後の荒んだ九州に旋風を巻き起こし、好景気の先頭に立つと言う大きな役割を終えて旅立った。

ゴージャスな暮らしは私とは無関係だが、私は九州は熊本県阿蘇で生まれて、程なくして父親の仕事の関係で福岡県飯塚市に行き、その後博多に住むが、それも束の間父親の仕事の都合で広島県広島市に行き此処で幼少期から成人になるまでの数十年を過ごす事と成る。

私は今の妻と、結婚して直ぐくらいに、妻の実家が生花店だった事と、私に生花店を営む同級生が居た事が切欠で、生花店を開店した時期がある。今も妻の実家の生花店はあるが、私の営む生花店は大阪に出てくると同時期に閉店した。生花店と一緒に広島でも水商売に手をだし、それが儲かってしまってその縁で大阪市淀川区で商売を始め、住まいは大阪市天王寺区から大阪府豊中市と言うところで最終的に落ち着いて十数年間過ごす事に成る。

大阪での職歴はかなり省いたが、夜の商売(性風俗店)を中心に名を馳せた。もちろん今の神政館の前進にもなる神業は同時並行して行っていたが、風俗店での神業絡みの用事も一段落付いたと言う事で、数年前に会社を友人に売買して現在に至る。私がここまで正々堂々と風俗店の経営者と言えるのも、人に突っ込まれる様なスキャンダルがないからだ。この業界で有りがちな税金の滞納や、自分の店の女性(ホステス)に手を出すなどと言う行為は一切無い。浮気も無ければ、店のホステスに仕事以外で、指一本触れた事も無いからだ。

ブログの本題に入る。この経歴も本題の一部には違いない。次男が中学校を卒業して、高校に入学して間も無くの春、帰宅した次男からタバコの匂いがした事が原因で、家から叩き出した。かなり手短だが、その前からの次男と私との事情(約束)があっての結果だ。ある意味で自由に成った次男坊は、縁あって当時の恋人の父親の家業でもある墓石屋で働く事が決まり、そこで現在二十歳に成るまでの五年間を、職人として働き、仕事に真面目な親方の職人魂のお陰で、超が付くほど真面目な一人前の手前ではあるが、職人に成る事ができたようだ。

その親方の出身地は高知県の石材屋、私の一族曽祖父も愛媛県宇和島の瓦職人同じ四国の出身だ。縁とは不思議なものでまさか次男が墓石屋に成るとは考えていなかった。事実次男と連絡を取り合ったのは、此処数ヶ月の事だ。長男の取り扱い商品は水晶だが、同じく螺神梁も石屋には違いない。私は神政館の館長にして陰陽師(霊能者・占い師)、生花店も広島で営業中だ。

家相墓相を鑑定する占い師(霊能者)に、水晶屋(パワーストーンショップ)、墓石屋に花屋ときたら葬儀屋も夢じゃない。墓相から墓石の入魂まで何でもござれの、絵に書いたような悪徳霊能者のようだ。しかし、私の四魂の経歴は、霊能者(陰陽師)に成る為の四魂と言っても良い四魂、これも運命というものだ。

来年、次男が独り立ち出来るかどうかは別にして、遅かれ早かれ独立は果たす筈だ。手抜きの出来ない真面目な職人だけに仕事は間違いない。此れを機会に、墓相の事について書こうと思う。これから先祖の墓を建立しようと計画している方や、墓石の建て替えを計画している方においては必見だ。

一族の繁栄に繋がる墓相や、先祖の悪因縁を抑える墓相、間違いの無い先祖の供養塔の事を記事にする。

神政館を一人でも多くの縁者と縁を繋ぐ方法として、ブログ読者には手を煩わせるが、神政館のサイト〔螺神梁サイトを含む〕・ヤフーブログ両方に記事を書く事にする。


陰陽師・神政館 館長:山下款二