トップ
霊的な相談及び指導 スピリチュアルカウンセリング
大日本神相学派琉家 陰陽師 神政館

[千と千尋の神隠し]

«千と千尋の神隠し»



映画「千と千尋の神隠し」についての、解説と言うか背景について面白い見解をしていると言う情報を頂いた。先日鑑定について問い合わせ頂いた方のメールにも、映画「千と千尋の神隠し」が好きだと言う事が綴ってあったので、ジョンタイターに続いて長文に成るが解説してみよう。ジョンタイターの解説に関しては、まだ先があるので、また次回の楽しみと言う事にしていてくれ。

以下の赤い文章は、山智浩さんの「ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記」のペーストだ。彼の事は今回始めて知ったが、誠実で器量のある方のようだ。

宮崎駿の『千と千尋の神隠し』に関しては柳下毅一郎の対談本『映画欠席裁判』その他で書いてきたとおり、娼館を舞台にした物語である。しかし、そう指摘されると怒る人が多いんだ、これがまた。

主人公は「湯女」として働かされるのだが、国語辞典でも百科事典でも何でもいい。「湯女」という言葉を引いて欲しい。たとえば『日本大百科全書』にはこうある。「温泉場や風呂屋にいて浴客の世話をした女性のこと。一部は私娼(ししよう)化して売春した」

『大辞林』にはこうある。「江戸時代、市中の湯屋にいた遊女」、 『岩波古語辞典』だと「風呂屋に奉公し、客の身体を洗い、また色を売った女」。「そういう見方もある」だの「そういう解釈もある」だのというレベルではなく、「湯女」とは「娼婦」を意味する名詞なのだ。

ただし、昔から風俗においては初潮前の少女は見習い(半玉という)として下働きをさせられる。千尋の場合はまだ、その段階だ。公衆浴場には銭湯と湯女風呂の二種類があり、銭湯の客は男女両方で、背中を流すのは三助という男だが、湯女のいる湯女風呂の客は男だけである。「湯女」で検索すれば、いろいろと湯女風呂の解説や図版が出てくる。これで明らかなように、湯女は基本的に娼婦である。

http://www.wind.ne.jp/asakusau/asakusa/ukiyoe/ukiyoe7.htm

http://www5.ocn.ne.jp/~ukiyo26/yuya11.html

http://www.c-c.co.jp/huzokusi4.htm

http://homepage1.nifty.com/shincoo/m124-2furo-nihon.html

http://www.1010.or.jp/menu/history/rekishi04.html

http://1010.or.jp/sento/history/04.php

ダメ押しで言っておくと、トルコ風呂がトルコ人からの抗議でソープランドに改名された時、最後まで残った有力候補は「湯女風呂」だった。もし、湯女風呂になっていればソープ嬢は「湯女」と呼ばれていたはずだ。『千と千尋』ほど数多くの映画評や新聞記事で取り上げられた映画はなかった。なにしろ「国民的大ヒット」だから。ところが何一つ「なぜ湯女なのか」ということに触れはしなかった。

たとえば渋谷陽一は宮崎駿に何時間もインタビューしながら一度も湯女の意味に触れなかった。まあ、彼は単に知らないだけだろうが、『ユリイカ』の「千と千尋特集」では何十人もの学者や「インテリ」に論じさせながら、「なぜ湯女なのか」誰も触れていない。売春の「ば」の字も出てこない。

かくしてオイラと柳下だけが「国民的名作をいやらしい目で観るヒネクレ者」ということにされてしまった。なかには「風俗と結び付けるいやらしい見方は許さない」と怒る連中も多かった。実は風俗うんぬんはオイラたちが最初に指摘したわけではない。


人間の肉体はパソコンで例えると、全くソフトの入っていないパソコンの本体だ。全くとは言っても、先祖から受け継いだ癖や身体的特長(運動神経や身体の弱い部分など)は備えている。パソコンでいう特長や性能と同じだ。その肉体に宿るのは人間の四魂、パソコンが肉体なら、パソコンを操るのは四魂だ。四魂がOSソフトだと思えば良い。生まれつきの病や身体障害は、起動ソフトの初期不良と言った所だ。病の場合なら、ソフトを正常にして再起動することで、ある程度難を逃れられる。身体障害は起動ソフトの初期不良によって、パソコン本体や部品が障害に侵されている状態なので、完全再生は難しい。

人の想像や創造は、四魂のデータに基づいて発せられる。従ってデータに無い事柄については、想像も創造も不可能なのだ。もちろん幾つかの備わっているデータを組み合わせて創造する事は可能だ。夢にも同じ事が言える。夢の中の突拍子も無い出来事や、夢物語の背景や登場人物もデータに基づいたものだ。





水木しげるの漫画『ゲゲゲの鬼太郎』の妖怪たちも全て実在しているように、宮崎監督の千と千尋の神隠しの背景といい、このような場所といい、登場人物である魑魅魍魎や神様まで全て実在している。もっと言わせて貰うと、こんな中途半端なものじゃない。もっと彩り豊かで広大な、神々の遊び場が存在している。

「なぜ湯女なのか」と野暮な事を聞くもんじゃない。そのままの世界だから理由など無い。実際は映画以上の世界だ。ヨーロッパの絵画や日本の神話の挿絵を見ても分かるように、神々は衣服を纏わずに裸で描かれていて、男女の神々が入り乱れている絵が多い。これは、神々が必ず男女一組で成り立っていると言う表現の一部だが、念積のレベルで考えると、特に現代の衣服と言うのは念積だらけなので、霊視するときに四魂を曇らせる事は間違いない。このように邪念というか念積が邪魔をするだけでも、神社の尊霊の世界から、我々人間の四魂を眺めると曇ってしまうものだ。だから、大昔から神社に正式参拝する時は、衣服を脱ぎ捨て更に清水(川や海)で禊をして裸体参拝する訳だ。

此れは人間界の念積がいまほど降り積もった状態でない頃の話なので、現代のように、神社そのものも結界が狭くなり神官も邪念まみれで普段からしっかりとした巫女も居ない状態で参拝しても、神社の尊霊たちは応対するどころか参拝者に気付かない状態だ。そこで、神社の拝殿などの隅にいる低級な動物霊や妖怪が尊霊に成り済まして、霊能者や参拝に訪れた人に憑く訳だ。

では神社仏閣に祈願や祈祷に行かない方が良いのか?と思うだろうが、これはもちろん行かない方が良い。行くならあくまでも観光に徹して行く事だ。殆どが明るい光や暖かさを良いものと勘違いして、憑依されに行く場所だ。しかし、悪因縁がそこに無い者や、邪念の少ない人は一週間前後で憑依が外れる。霊能者が貴方を見て神社仏閣や墓参りに行った事などを言い当てるのは、貴方が憑依されているからだ。その憑依を神や先祖と勘違いする霊能者も多いからくれぐれも騙されないようにしたい。

最初に言ったのは、宮崎監督本人である。 日本版『プレミア』の2001年6月21日号での『千と千尋』についてのインタビューで、どうして今回はこういう話にしたのかと質問された監督はこう答えている。「今の世界として描くには何がいちばんふさわしいかと言えば、それは風俗産業だと思うんですよ。日本はすべて風俗産業みたいな社会になってるじゃないですか」以下、宮崎監督はえんえんと日本の性風俗について語るのだが、要約すると、『千と千尋』は、現代の少女をとりまく現実をアニメで象徴させようとしたので、性風俗産業の話になった、と監督は言っている。

風俗産業で働く少女を主人公にするというアイデアを出したのは鈴木敏夫プロデューサーで、「人とちゃんと挨拶ができないような女の子がキャバクラで働くことで、心を開く訓練になることがあるそうですよ」というようなことを宮崎監督に話したら、「それだ!」とアニメの発想がひらめいたそうだ。ちなみに「プレミア」誌のインタビューで鈴木プロデューサーは「カオナシは宮崎監督だ」と言っている。

奇妙なのは、この『プレミア』の聞き手は、宮崎監督が性風俗について熱心に説明しているというのに、それを『千と千尋』と一切結びつけずに聞き流してしまうのだ。子供向けアニメが性風俗を扱うはずがない、と思って監督の一生懸命な説明も理解できなかったようである。

人は、たとえ監督本人が作品のテーマを説明しても、それが自分の考えていたものと違っていれば、受け入れないものなのだ。湯女風呂の歴史的事実と『千と千尋』をしっかり結びつけた評論は日本では見当たらない。恥ずかしいことにアメリカにはちゃんとある。

ウィスコンシン大学のボブ(18)とUSCのミンク(20)という日本語を学ぶ学生が運営するサイトだ。http://www.bobmink.com

『千と千尋』に関するQ&Aで「湯女」の語義を解説したり『プレミア』の宮崎駿インタビューを引用して、湯屋は娼館であることを説明している。まあ、アメリカ人でも見ればわかるのだ。だって湯婆々の服装は19世紀欧米の娼館の女主人(マダム)そのものだから。

ちなみに、少女が娼婦に身を落として、自分や親の罪を贖うという物語は実は世界中のあちこちにある。お姫様や絶世の美女が苦界に落ち、我が身を男たちに与えていくが、本当の優しさにめぐり合った時、天女になって天に召されるという草紙だ。

この映画の場合、両親が犯したのは飽食の罪だ。オイラはこれは、89年まで続いた戦後日本の高度経済成長と飽食、享楽主義のツケが、90年代から続く底なしの不況として返ってきたこと、それが女性の就職難につながり、風俗産業という苦界に身を投じる必要性が増している状況を象徴していると思う。「プレミア」のインタビューで宮崎監督は現代日本の女の子が性風俗のあふれる社会で生きていかねばならない現状を語っている。

また千と千尋の客が神様(全員男)なのは、古来、神に仕えるものと娼婦は同一視されていたからだ。古代から、世界各地の神殿の巫女は売春もしていた。最も聖なる者と最も下賎なる者は同じと考えられていた。日本に限らず、世界中で神に仕える女性は同時に娼婦でもあった。

神に身を捧げることと、誰にも分け隔てなく我が身を与えることは、同じことだからだ。タルコフスキーの『サクリファイス』に、主人公が世界への祈りとして魔女と性交するシーンがあるが、キリスト教以前の社会では、巫女との性行為を通じて人は神と対話した(ギリシアの巫女の例がよく知られている)。

民俗社会においては、巫女は、神の妻であり、人間にとっては処女であり(誰の妻でもなく)、、同時に娼婦でもある(誰の妻でもある)。だから湯女たちは巫女の衣装を着ている。性職者は聖職者だった。古今東西。また、中世のキリスト教教会は娼館を認可し、必要なものとしていた。

http://www.medievalsociety.org/2008/02/21/brothels-and-prostitutes/

中世の「聖なる娼婦」の伝説。

http://www.jstor.org/discover/10.2307/3704459?uid=3739256&uid=2129&uid=2&uid=70&uid=4&sid=47699119792967

性風俗と国民的アニメを結びつけるなんて!と怒った宮崎ファンはもういちど『プレミア』の監督インタビューを読むべきだろう。

そこで宮崎監督は、性風俗を悪いことと決め付けるのは、キリスト教的倫理の押し付けのせいだ、と怒っていらっしゃいます。

結論 宮崎駿先生には、堂々とポルノを作って欲しいです。手塚治虫先生は、三本も作りましたよ。『クレオパトラ』『千夜一夜物語』『哀しみのベラドンナ』…


此処では多くを語らないが売春は悪い事じゃない。問題なのは、女性が売春を生業にすると、よからぬ男共がそこに群がって売春婦から法外な金をせびったり、客としてきた男が勘違いを起こして、今で言うところの待ち伏せやストーカー行為など、下手すると暴行事件や殺人事件をまで発展しかねない弊害があるからだ。あくまでも売春は悪くない。正当な生業(正業)だ。

どうも頭の固い連中(特に身も心もブスで男性にモテナイ女性)は、嫉妬心(ジェラシー)からくる正義を勘違いして振りかざす傾向が強いようだ。また、人権団体などに属していたり、また、連中と考えを同じくする連中は、執着心が強く頭の柔軟性に欠ける。

売春を初めとする性風俗では、どうも男性側が上から目線で、半ば半強制的に働かせたり、性的サービスを強要しているかの如く言う連中が多いが、実際の現場ではそんな事は無い。むしろ男性客は、お店や女性ホステスに気を使いながら、毎回お金を支払っても満足に約束通りのサービスが受けられない事の方が多く、聞くも涙語るも涙、それはそれは可愛そうな状態だ。

但し成人男子や男児が肉体労働を強制的に強いられている現場も存在するように、一部では女性が強制的に性的サービスを強要される場所もあるが、それは特異な場所であって女性と風俗に限った話ではないので、此処では問題外だ。





今の第四神相の実情は、神界ではそれぞれ自分の好きな容姿をして好きな衣服を身に纏い、最近では一部食事もできるように成った。もちろん全ての神々がそうしている訳では無い。千と千尋の神隠しに出てくる湯屋などに相当する場所は、第六神相(妖精界)と言う妖精界がある場所に位置している。当然の事だが、神界にも妖精界にも魔界は存在していて、魔界にも多種多様な種類が存在している。



神界の神々に追随して、何時かは和魂を貰って四魂にして貰おうと言う考えの魔界も存在する。第六神相の最深部には、神々とて迂闊に行く事のできない危険な魔界も存在する。最近では、魔界を見たことが無い神々の為の魔界ツアーなるものもある。嘘のような本当の話だ。

現界(人間界)にも神々の下働きをしながら、神々の世話やご機嫌を伺って生きている連中の象意は出ている。私の知る限りでは一番分かりやすい場所は、香川県の金刀比羅宮に行くと良く分かる。入り口の階段の直ぐそばに、気持ちの悪い薄汚い男共が集まっていて、階段を駕籠かき(駕籠を担いで人を運ぶのを職業とする人。)が塞いでくるその姿が異様に気持ちが悪い。それと和歌山県友が島に行く船の港近くに、和歌山県和歌山市加太浦の淡嶋神社と言う人形供養・針供養・婦人病供養の神社がある。そこの有料駐車場の男の気持ちの悪さは魔物そのものだ。このように神社仏閣の周辺に、一部の因縁深い一族が集まるのも神界とまったく同じだ。



第四神相には日本のソープランドに似たような場所は数え切れないほどある。まあ、神界の連中は、人間と比べると比べものに成らないほど合理的な思考の持ち主だし、一番の違いは拘りの少ない大らかな連中の集まりだと言う事だ。全ての神々に当て嵌まる訳では無いが、そこは適当に楽しんでいるようで、人間の身体を真似て女性と交わると言う経験をしてみたいのだろう。

神政館を一人でも多くの縁者と縁を繋ぐ方法として、ブログ読者には手を煩わせるが、神政館のサイト〔螺神梁サイトを含む〕・ヤフーブログ両方にブログを挙げる事にする。


陰陽師・神政館 館長:山下款二